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東京地方裁判所 平成3年(わ)551号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

一  公訴事実と被告人の主張

本件公訴事実は、「被告人は、平成三年三月一六日午後七時ころから同日午後一〇時四〇分ころまでの間、東京都《番地略》甲野荘二階一号室被告人方において、A子(当二四年)に対し、刃体の長さ約二二センチメートルの柳刃包丁を突きつけ、その頚部を両手で締めつけ、「あんたは亡ぬのと触られるのとどつちがいいんだ。」などと申し向けるなどして、同女を全裸にした上、同女の乳房及び陰部等を手指で弄び、舌でなめ回し、あるいは、写真撮影し、更に、自己の陰茎を同女の肛門に押しつけ、あるいは口腔内に挿入するなどし、もつて、強いてわいせつの行為をなしたものである。」というものである。

これに対し、被告人は、わいせつ行為については、陰部を舌でなめ回した行為以外はほぼ事実を認めつつ、首は一緒に死のうという話になつて締めたにすぎないし、写真撮影も、被告人の依頼にA子が応じたものであるなどと主張し、弁護人も、暴行・脅迫の事実を否認し、わいせつ行為の存在を認めつつも、それらは合意の上でなされたものであるなどと主張している。

したがつて、本件では、わいせつ行為につき、A子の容認ないし承諾があつたのか、検察官の主張するような被告人の暴行・脅述が存したのかが争点となるが、本件は、被告人とA子しかいない密室での出来事であるから、乏しい他の証拠を基にして、この点に関するA子の供述の信用性を検討し、更に被告人の供述の信用性を慎重に吟味するしかない。

そこで、初めに、争点以外の事実で証拠により認定できる事実を確定した後、暴行・脅迫の有無はいつたんおいて、その他の点についてのA子及び被告人の各供述の信用性を吟味し、最後に、暴行・脅迫及びA子のわいせつ行為についての合意の有無についての判断を示すこととする。

二  関係証拠により明らかな事実

証人A子の公判供述、被告人の公判供述、証人B、同Cの各公判供述、証人Dに対する受命裁判官の尋問調書、実況見分調書二通(検察官請求証拠番号甲5、6)、捜査報告書(甲1)、現行犯人逮捕手続書(甲2)、E子、Cの各警察官調書(甲12、14)、レンズ付フィルム現像焼付捜査報告書(甲15)(以上の甲1ないし15の各書証については、不同意部分を除く。)、柳刃包丁一本(平成三年押第五四二号の1)、フジカラーカメラ一台(簡易カメラ、現像済フィルムを含む。同号の2)、バインダー式日記一冊(弁護人請求証拠番号弁3)、被告人の警察官調書三通(検察官請求証拠番号乙1ないし3)を総合すると、以下の事実が認められる。

1  本件当日に至るまでの被告人とA子の関係等

A子は、本件当日、二四歳の乙山協会の信者で、その関係で浄水器等の訪問販売員をしていた。結婚歴はないものの信仰を同じくする婚約者を有し、肉体関係もあつたが、婚約者に愛情は感じていなかつた。

被告人は、独身・無職で、本件当時は、肺結核による呼吸器機能障害により第三級身体障害者として生活保護を受け、本件現場である東京都《番地略》所在の甲野荘二階一号室を借りて一人で住んでいた。

被告人は、平成二年一二月八日、A子から浄水器を購入したのをきつかけにA子と知り合つた。その後、被告人は、A子から電気ポット等の商品を自ら約八万円ほど購入したほか、顧客を紹介するなどしてやつて、A子の得意客となり、A子も、被告人を「お父さん」と呼んで、弁当を持ち込んで昼食をともにするなど、被告人しか在室しない六畳間に頻繁に上がり込んでは仕事の合間を過ごすようになり、甲野荘一階のカラオケスナック「丙川」にも三回ほど同伴した。そのうち、被告人は、A子を一人の女性として意識するようになつていた。

2  本件当日、わいせつ行為直前の口論

被告人は、本件当日、A子に顧客を紹介するため、朝からA子の会社に連絡するとともに、こたつ板の上に携帯こんろと土鍋を用意し、鍋を作つて酒を飲みながらA子を待つていたが、昼過ぎにA子から「じや、行きます。」との電話があつたにもかかわらず、A子が被告人宅に赴いたのは午後六時半ころであつた。待たされた被告人は、ようやく訪れたA子に対し、「遅いじやないか。何をしていたんだ。」と憤まんをぶつけたところ、時間の約束はしていないと反発されたため、「お前のためを思つて客を紹介してやろうとしたのに、そんな半端な気持ちで商売をしているのなら、おれが今まで買つた物も全部持つて帰れ。」と怒鳴つた。すると、A子は黙つたまま、水道の蛇口から浄水器を取り外し、電気ポットの水をあけるなどして、今までに売つた物を玄関のところにとり集めて、「どうもご迷惑をおかけしました。持つて帰ります。」と言つた。怒鳴ればA子が謝るものと考えていた被告人は、A子の右のような態度を見てますます立腹するとともに、引つ込みがつかなくなり、やむなく「商品を持つて行くなら、今までおれが払つた金を返せ。」と強く迫り、A子が手持ちの金がないので後で持つてくる旨告げると、「ふざけるな。」と怒鳴り、これを許さなかつた。

3  わいせつ行為の存在

午後七時過ぎころから、わいせつ行為が開始された。時間的前後関係は必ずしも明らかではないが、被告人は、A子の乳房を手指・舌で愛撫したうえ、全裸になつたA子の陰部を手指で愛撫し、陰部を指で開かせ、そこに焦点をあてた写真を二枚撮り、更にA子の口腔内にその陰茎を挿入して(いわゆる「尺八」)、その状況を一枚写真撮影し、肛門に陰茎を押しつけて肛門性交を試みた後、A子の裸の上半身を一枚、再び陰部を指で開かせた写真を一枚それぞれ撮影し、A子の陰毛をはさみで切除するなどした。なお、遅くとも陰部の最後の写真を撮影した時点には、時刻は午後一〇時を回つていた(時刻につき、現像焼付捜査報告書添付の写真29上部に写つているデジタル式置き時計の表示時刻参照)。

4  本件発覚に至る経緯

A子は、午後一〇時四五分ころ、被告人方の窓から戸外に向かつて「きやー、助けて。助けて。」と数回繰り返し叫び、更に「きやー、警察。」と叫んだところ、これを聞きつけた第二甲野荘の住人Cが約二〇〇メートル離れた交番に駆けつけて通報し、これを受けたB、F及びGの三名の警察官がCとともにパトカーで現場に急行した。Bらが被告人の部屋の前の廊下に到着した際、被告人方は物静かであり、Gがノックして「何かあつたんですか。」と尋ねたが、室内から応答はなく静まりかえつていた。更にノックし、ドアのノブに手をかけ、ドアを揺するような感じで、GとBが交互に「何かあつたのか。」「ドアを開けなさい。」と繰り返し言つたが、それでも応答が全くなく、連続的にやつているうちにいきなりコートを羽織つたA子が廊下に飛びだしてきた。A子はしやがみこむようにして泣き伏せ、「中にいる暴力団と言つている男の人に脅かされて裸にされてポラロイドカメラで写真を撮らせた。」と訴えた。

三  わいせつ行為及びその前後の情況についてのA子及び被告人の供述内容

1  わいせつ行為前後の情況に関する、A子の公判における供述は、大要以下のとおりである。

前記二2の口論の後、被告人は、流し台から取り出した包丁で、指を切るぞなどと言つて脅迫してきて、結局、こたつのところに座らされた。

被告人は、「おれの気持ちをわかつてくれるか。ちよつとだけオッパイ触らせてくれればいいんだよ。オッパイ触るのと死ぬのとどつちがいいんだ。」などと言い、手首をつかんで強く引き寄せられ、膝の上に抱き上げられた。上半身裸にさせられ、胸を愛撫した後、更にズボンに手を入れてきたので、抵抗すると、思い切り首を締められた。やむなく全裸になると、陰部を手で触られ、陰部を指で開かさられて写真を撮られた。次いで姦淫する旨告げられ、婚約者がいるからと言つて断ると、「じやあ、そこは勘弁してやるから後ろに入れろ。」と迫られ、「許してもらえるんであれば入れます。」と言つて、四つんばいになつた。被告人は、挿入しようとしたが入らなかつたので、A子に対し、スキンローションを肛門に塗つて自分から入れるように命令してきた。A子は、自分から入れる格好をしながらも、挿入するしかないかという状態にところで、ことさら「痛い。」と言つて挿入をやめることを繰り返すと、被告人は、「それなら、尺八をしろ。」と迫つてきて、首に指をあてたり、こたつの上の包丁を持とうとしたりしたので、怖くてこれに応じた。このあたりでは、自分はもう冷静さを失つていて、もう死ぬんだなと思い、殺されてもいいと思うようになり、「殺されるのは苦しいから、寝てるとに殺してください。」などと被告人に言い、実際に口をふさがれだりした。

その後、被告人に陰毛をはさみで切られたが、そのころには、被告人から写真を親や恋人に送ろうかとか、明日になれば死んでいるなどと言われていた。陰毛を切られた後になつて、窓が少し開いているのに気付いて、もしかしたら窓を開けて叫べば人が来るんじやないか、逃げられると思い、被告人が「次はかみそりで剃る。」と言い出した際に「自分でやるから。」と言つて体を起こし、被告人を突き飛ばすように押して、窓を開けて叫んだが、すぐに被告人に閉められたので、被告人の頭部をコーヒー瓶、土鍋で殴つて再び叫ぶなどしていると、人が駆けつけて警察を呼びに行つてくれた。その後もこたつを押したりして暴れていると、被告人は「もう服を着て帰れ。」と言いだしたので、コートなどを身に着けて室外の廊下に飛び出すと、廊下の端の入口のドア付近から警察官が入つて来た。

2  他方、わいせつ行為前後の情況に関する被告人の公判供述の大要は、以下のとおりである。

口論の後、A子は、自分でコーヒーを作りこたつに入つて飲みながら、「お父さん、私が悪かつたから、もう一回仲直りして下さい。」などと何回も謝つてきた。最初は黙つていたが、じきにかわいそうになり二人で話を始めた。その後、前日のカラオケの話になり、昨日のフィルムが余つているから裸の写真を撮らせてくれないかなどと言つたところ、A子はやがて「しようがないお父さんなんだから。」と了承したので、「こつちに来なよ。」と言つてA子を膝の上に背中から抱くような形で座らせ。服の上から乳房を触りながら、また少し雑談をした。そして、上下とも服を脱いでもらい、裸で立つている状態を一枚写真に撮り、次に寝させて、陰部を両手で開かせた写真を何枚か撮つた。そして、寒くなつたのでこたつにもぐり込んでお互いに愛撫しあつたところ、被告人の陰茎が半立ちの状態になつてきたので、肛門性交を試みるなどしたが、尺八をしてもらうなどして半立ちには何回もなつたものの、いざ入れようとするとしぼんでしまい駄目だつた。そのため、「おれも年を取つたし、身体も弱つている。ここに包丁があるから、おれといつしよに死のうか。」と言つてA子の前に包丁を置き、「これでおれを刺せ」。と言い、更に被告人はA子ののど仏あたりを触り「ここを締めれば簡単に死ねる。」と冗談話として心中を持ちかけたりした。結局挿入をあきらめ、「写真を親に送ろうか。」などと困らせるようなことを言つているうち、疲れと酔いから眠くなつたので、「寝るぞ」と言つて寝た。A子も横になつた。突然頭を殴られて目を覚まし、「お前、何をやつているんだ。」と言つたが、A子がこたつの上の物をひつくり返したりして大暴れしていたので、まずいと思つてまた横になつた。すると、A子は、自分の寝ている横に来て座り込んで何か言い続けたが、無視して返事をしなかつたところ、「もう頭に来たから。警察呼ぶよ。」と言い出し、「呼びたければ、呼べばいい。」と言つたら、自分は何もしていないのに、窓を開けて「殺される。」と叫んだ。やめろと言つて窓をいつたん閉めたが、また開けたので、勝手にしろと言つてほおつておいた。そのうちに、警察官が来て逮捕された。

四  A子が救助を求めた情況及びその前後の情況に関する供述の検討

1  まず包丁をこたつから落とし、被告人から遠ざけたとするA子の供述について

A子は、最九回公判において、包丁は、わいせつ行為中はこたつ板の上の、被告人の座つていたこたつの南側からみて右手前のコーナー上にあつたが、陰毛を自分で剃るからと言つて被告人を突いた際、包丁がとにかく気になつたので、これを被告人から遠ざけるため、窓を開けて叫ぶ前に、こたつ板の手前側をまずちよつと浮かせて板上のものを全体に向こうに動かし、更に細かいものを手で押して包丁もこたつの向こうの方へ落ちたと思うなどと供述する。

しかし、この包丁を遠ざける経緯については、A子の警察官調書(供述経過を立証趣旨として取り調べたもの)には全く記載がなく、警察官調書(右に同じ)の本文中に初めて供述が見受けられるものの、読み聞けの後に現場の状況との矛盾点を検察官に指摘されたため、供述を二回にわたつて大きく訂正していることが同調書の記載から窺われ、その各録取内容は、包丁の位置や包丁の落とし方など、いずれも第九回公判における供述と全く異なるものである(最終的には、「包丁より手前にあつた土鍋の載つたこんろを押して、そのこんろで向こう側に置いてあつた包丁をこたつ板の上から反対側の方に突き飛ばした。」という内容になつている。)。前記第九回公判の供述内容自体をみても、真実包丁が怖くて仕方がなかつたというのであれば、端的に包丁を自ら手に取り、あるいはこたつ板ごとひつくり返すなどの行動をとるのが自然であつて、A子の主張する当時の精神状態に照らして不自然である。

そして、第二回公判においては、包丁を落としたくだりについては触れずにおきながら、第九回公判においては「包丁がとにかく気になりました」との点にあくまで固執し、包丁の後にこたつから細かいものを落とした理由につき尋ねられると、落とした包丁を紛らわすためなどと、やはりA子の述べる情況からして不自然な理詰めの供述をしていることも考え合わせると、A子は、少なくとも窓を開けて叫ぶ段階では、包丁の存在を意識していなかつたと認めるのが相当であり、この点に関するA子の供述は、包丁による脅迫に恐怖し、本件わいせつ行為に応ぜざるを得なかつた旨訴えるための、虚偽の供述であると断ぜざるを得ない。

2  証人Dに対する尋問調書によれば、「隣室の布団の中で半分寝ている状態でいたところ、二人で言い合つているような雰囲気がした後、何か物が倒れる様な大きな物音がし、更に二人のやり取りが続き、物音から一五分くらい後に、助けて、という者が聞こえた。」とのDの供述が存在するが、この「大きな物音」は、A子が土鍋で被告人の頭部を殴つた際か、その後のこたつ板をひつくり返した際かのいずれかに起こつたものと解するのが自然である。

ところが、前記のとおり、A子の供述では、すきを見ていきなり物を持つて殴りつけ、それと同時に窓を開けて助けを求め、その後にこたつ板をひつくり返したというのに対し、被告人の供述するところでは、おおむね、いきなり殴られ、文句を言つたりしたが、こたつ板をひつくり返したりして暴れているので、まずいと思い取り合わないで横になつていたところ、そばに来て座り込みひとしきり何か文句を言つた後に、警察を呼ぶと言つて大声で叫んだというのである。突然頭を殴られて目を覚すと、A子がこたつの上の物をひつくり返したりして大暴れしていたとの被告人の供述内容は、物が散乱している事件後の部屋の客観的状況と特に矛盾するところはないし、この点の被告人の供述は捜査段階から公判に至るまで、ほど一貫した内容のものであり、揺らぐところが感じられない。また、A子が、被告人に対し、何らかの理由で怒つて冷静さを失い、売り言葉に買い言葉で、思わず窓の外に向かつて叫んでしまつたという被告人の供述は事態の推移としてそれなりに説得的である。そうだとすれば、Dが隣室で聞いた声や物音の状況は(約一五分の間隔であつたとする点は、実際にはそれより短いと考えられる。)、むしろ、被告人の供述するところに符合するものといえるのに対し、A子の供述するところとはかえつて矛盾するものというべきである。

3  被告人方を飛び出す前後の情況について

証人Bの供述は、前記二4に述べたとおりであるが、A子は、第九回公判において、被告人方から廊下に飛び出したときは、まだ警察官は戸口には来ておらず廊下の端の入口のドア付近から入つて来るところであつて、警察官が部屋のドアをノクしたり、中に問いかけてきたことはなかつたと全く異なる供述を堅持する。

しかし、証人Bの公判供述は、現場に赴いたBを含む警察官三名作成の現行犯人逮捕手続書及びB作成の三月二二日付捜査報告書とほぼ同旨であつて、被告人の逮捕直後からBらがことさら虚偽の供述をなす理由は見出し得ないし、証人Dに対する尋問調書によれば、被告人居室の隣室の住人であるDも、警察官が被告人の部屋の中に声をかけているのを聞いた旨Bと合致する供述を行つているのであるから、証人Bの公判供述は極めて信用性が高い。

この点、検察官は、A子は、助かりたい一心で、いわば無我夢中で行動していたため、警察官の呼びかけに気がつかなかつた可能性も強いと主張するが、最初に声をけたところ室内から応答がないため、緊急状態との危惧感の下に、二人の警察官がノックし、ドアを揺すり、声をかけたのであるから、かなり大きな声・音だつたはずであるし、室内に対する問いかけは数回繰り返されたというのであるから、A子が助かりたい一心であつたならば、最も待ち望んでいた警察官の急行を聞き逃すはずはない。

ところで、A子は、その供述その他関係証拠によると、被告人の頭をコーヒー瓶、土鍋及びポットでさんざん殴つて既にその支配下を脱しているはずなのに、直ちに室外へ逃げることなく(なお、同室の鍵は、内側からドアノブを回せば外れるいわゆる内鍵であり、室内からの脱出の際に何ら障害となるものではない。)、こたつのやぐらを揺すつてその上に載つているこたつ板をひつくり返すなどして暴れ続けた旨供述していることが認められ、この行動の理由について、「とりあえず逃げる前に何というか……士気を見せるというか」などと述べているが、これは理屈が先に立ち、前後の心情・行動に照らして自然性・合理性に欠ける供述となつており、強い疑いが残る。また、前記二4のとおり、A子は、飛び出してすぐ警察官に対し、「中に居る暴力団と言つている人が……」と、従前のA子と被告人との関係からするとおよそ考えられない表現を用いて、被告人による被害を訴えているのである。

以上からすると、A子は、他の何らかの理由・思惑があつて窓を開けて叫んだのであつて、警察に被害を訴え出ることまでは考えていなかつたところ、実際に警察官が訪れて事態が予想以上に大きくなつたことに戸惑い、ちゆうちよした、そして、被告人から強制的にわいせつ行為をされたと訴える旨意を決したうえで、部屋を飛び出してそのように振る舞つたとの可能性を否定できず、したがつて、この点につき、A子がことさら虚偽の供述をしている疑いがある。

4  抵抗するきつかけとなつた事情として、かみそりで剃るといわれた際自分で剃るといつて被告人を突き飛ばすように押した、と供述するところも、A子の警察官調書には記載されていないことで、検察官調書で初めて現れたことであるうえ、そのようなやり取りは、かみそりが傍にあることを前提とするものと考えられるのに、現場付近にはかみそりが見当たらないことからすると、そのようなやり取りがあつたかどうか、なお疑問が残る。

5  更に、A子は、ふとガラス窓が二、三センチ開いていたのに気づき、逃げられると思つた、述べているが、当日は、A子の服装(厚手のオーバーコート、セーター等着用、写真撮影報告書参照)、一六日(午後三時まで)の東京地方の気温は最高七・八度、最低四・一度となつていること(弁護人提出の三月一七日朝日新聞朝刊写しによる。)からも明らかなように、かなり寒い日であつたことが認められるところ、深夜窓が開いていたとしたら、ストーブが炊かれていたとはいえ、冷たいすきま風が入り気づいてもよさそうなのに、全裸で窓の近くにいるA子自身それに気づいていないのであつて、果たして窓が開いていたかどうか疑問があり、ひいては右供述を直ちに信用してよいか疑問がある。

6  この点についての被告人の弁解は、おおむね前記のとおりであつて、すでに触れたとおり捜査段階からほぼ一貫していることが認められるし、この情況についての供述は、公判でしばしば尋ねられても、ほぼ一貫して揺らぐところはない。

7  してみると、以上の点についてのA子の供述にはかなりの虚偽が含まれていることが窺われ、一部には明らかに信用できないとすべき点を含んでいる反面、被告人の供述が信用できないとはいえない事情が少なからず見出される。したがつて、強制の有無についての供述の信用性についても、慎重に検討する必要があるといわなければならない。

五  A子の供述中、自己の行動を正当化・美化するためになされた供述あるいは誇張を含む供述であつて、真実ではないとの疑いがある部分(A子の供述全体の信用性に関する考察)

1  被告人に殺されることを認容し、更には望んでさえいたとする供述部分について

前記三1で触れた供述があるほか、A子の検察官調書にも、公判と同様、「そのあと私は死にたくてしかたがありませんでしたので、そのことをHに言うと、『こたつに入つて寝ていろ。眠つている間に殺してやる。』と言つてきた。今思えば精神がおかしくなつていたのだと思いますが、本当にHに殺されてしまいたいと考えていました。」との記載が見られるが、例えば、抵抗の末に力づくで姦淫されたというのであればともかくも、最も恐れ、拒否し続けた姦淫を結局免れていながら、死ぬ覚悟をし、殺されたいと思つたなどという供述は、にわかに信じがたい。この点に関するA子の第二回公判における供述が、質問に答えるというのではなく、次々と理由を述べ、先へ先へと話を進めており、自己弁明をはかつているように見える点も右疑いを強めるものと評価しうる。

また、A子は、姦淫を拒否した理由について、警察官調書から第二回公判に至るまで一貫して婚約者の存在を挙げてきたが、第九回公判で、自殺したくなつた理由を尋ねられて、いつたん自己の信仰を理由に挙げるや、その後の検察官の尋問に対しては、わいせつ行為の間中、神と自分との関係をいかに守るかということで頭が一杯であつたなどと答え、被告人の各わいせつ行為の要求に応ずればそれ以上の行為はされないと信じてしまつた理由、物理的にはさほど抵抗しなかつた理由、姦淫のみを拒絶し続けた理由、自殺したい、死にたいと思つた理由、現在被告人に対して強い憎しみを拘いていない理由など説明に窮すると思われる点については、全て信仰を理由にしているきらいがある。事柄の性質上これらの点の記憶を誤ることは考えられず、右の供述は、最も信用を得られる理由を探し求めた結果、A子がたどりついた供述内容であり、全くの虚構である可能性がある。

2  A子は、公判では、肛門性交の点につき、被告人が試みたが、うまくいかなかつたため、被告人がスキンローションをカラーボックスの引き出しから出してきて、A子に自分で肛門の周囲に塗るように言い、かつA子の身体を動かしてA子の方から挿入行為をするように命じられた、と述べているが、A子の検察官調書では、被告人が自分で陰茎がA子の肛門にスキンローションを塗り付けA子を四つんばいにした状態で陰茎を押しつけてきた、と記載されており、他方、警察官調書にはそのような具体的な供述記載は全くない。

A子の右公判供述は、挿入方法等について不自然な印象を受けるばかりか、ローションを塗布した者が被告人であるかA子であるかについてA子自身が記憶違いをするはずはないことを考え合わせると、この点についてのA子の供述は、全体として疑わしいとの印象を免れない(なお、後に尺八をした際ローションの化粧品特有の味がするはずであるが、それについての供述もない。)。

また、被告人の年齢や当日の飲酒量からすると、勃起しなかつたからこそ尺八をさせたという被告人の供述の方が自然であるように思われるし、スキンローションを使用したか否かについて、被告人がことさら嘘を述べる実益に乏しいと考えられることからすると、被告人のこの点についての供述は、にわかに排斥しがたい。

なお、A子は、スキンローションの容器は被告人が部屋の引き出しから出してきたものだが、それは三、四センチメートルの大きさの試供品で、逃げる際自分は外に持ち出していない旨第九回公判で供述しているところ、検察官は、三月一七日付実況見分調書添付の写真6、7並びに同月二八日付実況見分調書添付の写真26、27によれば、たばことマッチの間に三、四センチメートルの試供品程度の大きさの容器が落ちており、これがA子供述の真実性を裏付けていると主張する。しかし、同月一七日付実況見分調書添付の現場見取図3によると、右容器は「しようゆさし」である旨明示されており、前記写真を見てもラベルが貼られていないプラスチック容器と認められる(同写真に写つている市販の弁当に付属していたものと推測される。試供品なら、その目的からして、ラベルが貼られているか商品名などの印刷がされているのが普通であろう。)。結局スキンローションの容器は現場から発見さておらず、被告人はその所持及び使用を否定していることから、A子の右供述の信用性には疑問がある。

3  加えて、ゴム製性具、ゴムサックについて、解明できない点が残る。すなわち、三月二一日付実況見分調書添付写真番号26、27、30その他関係証拠によると、避妊用ゴムサック一個とセルロイドケースに入つたいぼ突起やひだ隆起のあるゴム製性具三個は、A子がこたつ板をひつくり返す前はこたつ板の上に置かれていたものと推認されるが、被告人は、これらがカラーボックスの引き出し(小物入れ用に内部が井桁状に仕切られたもの。A子は、被告人がそこからスキンローションを取り出したと述べている。)の中にあつたことは認めながら、これを取り出したことはないと述べ、他方、A子もこのような物は見ていないし、性具については用途も全く知らなかつたと述べている(第九回公判)。これらがA子の来る前からこたつ板の上に出ていたことはない(あらかじめ出ていれば、A子に不審に思われることになる。)と考えられるから、わいせつ行為の間に被告人かA子のいずれかが持ち出したものと認めざるを得ない。そして、これらは、いずれにせよ性交の際に使用するものであり、しかもその用途・効用からして、合意による性交に使われやすいものである。本件で性交が意図されていたことは、この点からも窺われるが、仮に被告人自身がこれらを持ち出したとしたら、A子にこれを示し、その使用の要否を尋ねるなり、これらの効用について告げるなりするのが通常ではないかと思われ、その結果A子がその存在等につき認識することとなるはずである。しかも、こたつ板の上にある以上、A子が全く気づかなかつたということは考えがたい。にもかかわらず、A子がその存在に気づかなかつたとあえて述べる心理は、気づいていたと言えば合意があつたことを認めることになるのを恐れたことにあるのではないかと考えられる。いずれにせよ、このような物がこたつ板の上に存在していたという事実は、本件の行為が強制によるものではなかつたのではないかとの疑いを高める方向に働くものというべきである。

4  信用性に疑問を抱かせるその他の点について

(一)  A子は、被告人方の電灯は点いていなかつたと思うと供述するが(第九回公判)、証人C及び被告人は点いていたと供述しており、証人Bが部屋に入つてすぐじゆうたんの上の陰毛を発見していること及び午後一〇時過ぎという時間帯からしても、室内の電灯は点いていたことは明らかと認められる。A子がこの点で記憶違いをするなどということは考えられないのに、このような供述をあえてしている心理は、A子としては、明るいところで本件のようなわいせつ行為をやつていたことを否定したいためではないかと考えられる。

(二)  また、A子は、いわゆる尺八をしているところを写真に撮られた記憶はないと終始述べているが、右状況の写真(現像焼付捜査報告書添付の写真28)によれば、撮影の際、フラッシュが用いられ、かつ、A子がカメラの方に視線を向けていることが認められ、かかる状況下で意思に反して写真に撮られたのであれば、全く覚えていないとは通常は考えがたい。A子は、わかつていながら尺八の行為中に写真に撮らせた事実があるため、これを否定すべく、かかる供述を作つている疑いがある。

(三)  内鍵の施錠についてのA子の供述についても誇張が見られる。確かに、時期、主体はさておき、施錠の事実自体は認めうるが、被告人の供述(捜査段階を含む。)によれば、被告人は、平素から施錠する習慣を有していることが窺われるうえ、A子が訪れたときもいつも施錠していたと認められ、また、右内鍵は室内からは自由に開けられるものであることをも考慮すると、A子の、一応閉じ込められたと感じた旨の公判供述(第二回公判、速記録六三丁表)は、少なくとも誇張に過ぎるものといわざるを得ない。

(四)  A子の供述には、捜査段階から公判に至るまでの間に比較的重要な事項に関する部分を含め、かなりの変遷が見られる。

既に見たとおり、包丁を遠ざける行為、前記2で見た肛門性交に関する部分(特に陰茎を押しつけたかどうか、スキンローションの使用の有無、主体)については、警察官調書では全く出ていないし、かみそりで陰毛を剃る話が出た際にA子が抵抗を始めたとの点も警察官調書では全く出ていない。これらの点については、公判証言と検察官調書の内容との間でも微妙な変遷を生じている。更に、殺されてもよいというような心理状態の供述についても同様である。

5  以上述べた点に加え、A子は、第二回公判において、主尋問に対し、次々と先回りして長い返答をし、自己の心情を詳しく説明しているが、その割には、客観的な行為自体は要点のみの供述に終始し、午後七時過ぎから一〇時半過ぎまでの三時間半という時間を十分説明できていないため、いかなる場面が省略されているか、疑いをいれる余地を残している。また、前に例を挙げたように、自己弁護のため理詰めの供述が目立つこと、尺八要求の際の被告人の暴行・脅迫についての「首をこう、首に指を当てられたりとか、包丁がこたつの上にあつたので、包丁を持とうとしたりとか、そういうことをしたので、本当に怖くて」との供述(第二回公判、速記録二四丁表)や、肛門性交直前の場面での「ワセリンというか、スキンローションとかを出してきて」(同速記録二五丁表)との供述など曖昧になるはずのない肝心な事項について、はつきりしない供述が見受けられることも考え合わせると、A子の供述の信用性には全体としてかなり問題があるというべきである。

六  被告人の供述の信用性

1  被告人の供述は、捜査段階からわいせつ行為の順序がしばしば変遷しているうえ、通常であれば忘れるはずのないA子とのやり取りについて覚えていないと述べる部分が多く、その信用性に疑いを抱かせる面を否定できない(被告人は、公判においては、A子に女性としての魅力や愛情を感じていない、わいせつ行為を要求したのも、酒の勢いあるいは冗談で言つただけである旨供述するが、前記公判供述は信用しがたく、このように、被告人の公判供述中には、都合のよくないところは必ずしも正直に述べていないところが散見される。)。

2  しかし、三月一七日警察官調書等の被告人の供述によれば、被告人は、昭和五五年ころ、アルコール中毒で精神的におかしくなり入院した経験があるにもかかわらず、相変わらず、焼酎のお湯割りを毎日約一升飲んでいたというのであり、E子の警察官調書からも、被告人が酒を飲むとおかしくなり、その旨本人の自覚もあつたことが認められるから、現在も被告人がアルコール中毒である疑いが存する。そして、本件当日も、被告人は、午前中から酒を飲んでおり、わいせつ行為時にはかなり酒が入つていたと認められることを考え合わせると、本件当時の細かい記憶がないことも無理がないと考える余地があるから、この点を理由に直ちに被告人の供述につきことさら虚偽を述べているものと見るのは相当でない。

3  被告人の供述は、その時間的前後関係にはかなりあいまいなところが多いとはいえ、各わいせつ行為の内容やその際の心情描写等の主要な点は捜査段階から一貫しており、公判でいくら質問されても供述が揺るがず、その内容も、既に検討したように、特に不自然とまではいえない。

4  被告人の供述中、入れようとすると陰茎がしぼんでしまい結局挿入に至らなかつた、その後の疲れと酔いから眠くなつて寝てしまつたとの部分は、被告人の年齢や酒が入つていてアルコール中毒の疑いもあるという健康状態に照らし、一応ありうることといえるのであり、こたつ上に出されていたゴムサック・ゴム製性具に使用の痕跡がないこととも整合する。そして、自分の陰茎が性交が可能な程度まで勃起しなかつたことから、情けなさと照れ隠しの気持ちが混じりあつて、冗談に心中を持ちかけるということは、被告人の公判での供述態度からしても、十分に考えられる行動であり、その際に手近にあつた包丁を手に取ることも、決してあり得ないこととはいえない。

5  被告人は、本件当日、A子が全裸で立つた姿を一枚最初に撮つたと捜査段階から繰り返し述べ、当初から「そんな写真はない。」と幾度となく詰問されているにもかかわらずその供述を維持しているが、現像焼付捜査報告書及びフジカラーカメラ一台の現像フィルムによれば、現像された写真のうち、本件前日のカラオケスナックでの最後の写真(写真25、ナンバー12のコマ撮り)と本件当日の最初の写真(写真26、ナンバー9のコマ撮り)との間には、何も写つていなかつたナンバー11及び10のコマ撮り二枚分のフィムルが存するから、立つた状態の写真も撮つたが何らかの理由で写らなかつたという可能性があり、右被告人の供述は虚偽とまではいえない。

6  検察官は、被告人が、第一〇回公判において、大体午後七時半ころには寝ただろうと述べた点をとらえて、これは現像焼付捜査報告書添付の写真29(時計が午後一〇時三分を示している。)に矛盾するとして、被告人の供述の信用性がないと主張するが、三月二四日付及び同月二六日付の被告人の各警察官調書によれば、被告人は、殴られて目が覚めたのは、眠つてから間もなくである旨述べており、この供述は先の写真と合致する。すなわち、長い時間寝ていたと述べ出したのは公判に至つてからであり、時間の経過等による記憶の薄れの可能性が存し、そもそも寝ていた時間の長短は、本人が明確に認識できる性質の事柄ではないし、酒に酔うと時間の経過が短く感じられることもある点をも考慮すると、この点をもつて供述全体の信用性を大きく低めるものとみるのは相当でない。

七  被告人による暴行、脅迫に関する供述内容の検討

1  包丁による脅迫の供述の検討

(一)  口論後の包丁を示しての脅迫について

この点に関するA子の供述は、次のとおりである。すなわち、口論の後、被告人は、責任を取つてもらうと言つて立ち上がり、流し台の扉の中から包丁を取り出すと、まず髪を切ると言つて、A子と向かい合い髪を切る仕種をし、次に「指を切つてもらおうか。やくざもみんな約束を守らないから指を切つて、手がげんこつみたいになつているだろう。自分は、やくざのなかでも約束を守るから指がちやんとそろつているんだ。」などと言つたが、これを拒絶すると、部屋の内鍵を閉めて、包丁でこたつのところに座らされた、というのである。

他方、被告人は、事件当夜から、この点を否認して、包丁は初めからこたつかテーブル(座卓)の上に置いてあつたと主張し、その理由として、鍋の中身がなくなつたときに野菜を切つて入れるため、あるいは、いつも手の届くところに置いておくなどと述べるが、こたつや座卓上にまな板や野菜の切り屑などは全く見当たらず、被告人が述べるように、当初から包丁がこたつ板の上かその近くにあつたことを裏付ける証拠は特に存しない。

この点についてのA子の供述が事件当夜から一貫しており、内容もかなり具体的であり、かつ帰ろうとしていたA子を帰らせまいとするには何らかの強制めいた行為が必要ではなかつたかとも考えられることからすると、一面右脅迫がなされた疑いが濃いようにも考えられるが、先に検討したとおり、A子は、窓から外に叫ぶ段階において包丁を意識していなかつたにもかかわらず、強制である旨訴えるためにことさらこの点の供述を偽つているのであつて、他にも相当疑わしい供述が存することを考慮すると、A子の供述のみでは右脅迫の事実を認めることにためらいが残るし、A子自身も、そのまま帰つたのでは具合が悪い、できることなら被告人と和解して帰りたいという気持ちもあつたと述べていること、前記のとおり内鍵を締めたことにつき誇張した供述をしている疑いがあることなどの点を考え合わせると、被告人の述べるところも、あながちこれを虚偽の弁解であると断じがたいように思われる。

また、仮に右脅迫があつたとしても、それはその後の推移からして、被告人方にそのまま在室させようとする趣旨にとどまるものであつて、その後、A子がこたつに入つてコーヒーを飲んだり、あるいは被害人がA子の胸を服の上から愛撫したりしながら雑談をしたという和解的な情況(被告人の公判等の供述)の中で、その後のわいせつ行為との因果関係が断絶されている疑いも残り、したがつて、包丁がこたつ板の上に置かれていたことをもつて、直ちに強制わいせつ罪における脅迫にあたるものとはいいがたい(A子は、第九回公判において、口論の後は、上得意の客である被告人と仲直りをせずに会社に帰つても具合が悪い、できることなる和解して帰りたいとずつと思つていた、そして、考えたあげくではあるが、服の上から胸を触られるくらいは我慢しよう、仕方がないという気持ちもあつたなどと述べており、被告人が供述する、A子がコーヒーを飲みながら被告人に謝つた、その後被告人はA子の胸を触りながらしばしば雑談したとの展開は、右A子の心情からして、一応あり得ることと考えられる。)。

なお、A子は、その検察官調書で、包丁をこたつ板の上から落として遠ざけたとする際の包丁の置かれていた位置について、こんろの向こう側にあつたと述べていたところなどに照らし、包丁があつた位置について、A子が公判で述べているように終始こたつ板の手前の手近な位置にあつたかどうかについても、そもそも疑問があるところである(ちなみに、現像焼付捜査報告書添付の写真28、29で認めるこたつ板の上の手前の部分には包丁は写つていない。)。

(二)  その後の包丁による脅迫の有無

この点に関するA子の供述は、「包丁を手に取ろうとしたりして……」(第二回公判)、「私がいうことを聞かないときに手にかけるというような感じで、」(第九回公判)という曖昧なものであり、先に述べたA子の供述の信用性の低さを考慮すると、被告人が包丁に手をかけるなどして脅迫した事実を認めることについては、なお、躊躇せざるをえない。

2  首を締めたことについて

A子は、わいせつ行為の都度、首に指をあてたりして脅されたが、一回だけ思い切り首を締められ、倒れてしまつたことがあつたと述べ(第九回公判、速記録四〇丁裏)、実際、A子が、首を締められた情況を具体的に述べているのは、被告人がまだズボンを履いていたA子の下半身へ手を伸ばしてきたのに対し、抵抗した場面のみである。

そこで、その一回の強い首締め行為について検討するに、確かに、右の段階で、首を強く締められ、失神したようになつてテーブルの方へ倒れたという点で、警察官調書の段階からほぼ供述が一致しているが、その態様は、曖昧で変遷が見られる。すなわち、警察官調書においては、A子の他の場面における表現能力からすると不思議なほどにイメージのわかない、非常にわかりにくい供述が録取され、検察官調書においては、被告人は、座つた自分の両膝の間にA子を座らせ、後ろから抱くような位置関係で、後ろから首に手を回し、親指でのど仏付近を強く押してきた旨の記載がなされ、第二回公判でも全体としては検察官調書とほぼ一致した供述をしているが、右の位置関係において、親指で思い切りのど仏を押したり、親指で思い切り首を締めることが果して可能か、大きな疑問が残る。この点、A子は、第九回公判において、被告人と顔と顔とが向かい合う形で締められたなどとも供述し、これに符合する「締められて被告人から遠ざかるように倒れた」旨の第二回公判供述も存するが、理由なき供述の変遷であるから、後者を直ちに信用してよいとはいえない。そして、この種事案においてしばしば証拠として見られる、被害者の頚部の首締めの痕跡を撮影した写真や「まだ首が痛い。」などといつた訴えが記載された被害者供述調書が存しないこと、先に検討したA子供述の全体の信用性の低さをも考慮すると、被告人が、心中話の際、ふざけ半分にA子ののど仏に手をあてた行為に着想を得て、右供述を創作したのではないかとの疑いが残る。

3  「あんたは死ぬのと触られるのとどつちがいいんだ。」との脅迫の存否

1ないし2の暴行・脅迫が認めがたいとすれば、死ぬなどという文言が出るのは不自然であるし、仮にそのような被告人の発言があつたとしても、それは戯れ言に過ぎず、A子を恐怖させるものではなかつたという疑いが残る。

八  わいせつ行為についての合意を窺わせる事情

1  A子が、当時婚約者のいる二四歳の女性であつたのに対し、被告人は、五二歳という実齢よりも老けて見え、かつ裕福でもない平凡な男に過ぎず、本件前に合意の上で肉体関係に至るような兆候は存しなかつたこと、にもかかわらず本件わいせつ行為は夫婦間や恋人同士の間でも通常行われない極めてわいせつ度の高い行為であるうえ、後々まで証拠に残るわいせつ写真の撮影まで行われていることなどの外形的事実を考慮すると、本件わいせつ行為が被告人の何らかの脅迫等により、A子の意思に反してなされた疑いはかなり濃い。

2  しかしながら、本件以前から被告人とA子の間には人的関係があり、A子は、被告人が独居する六畳一間の現場を頻繁に訪れ、数時間入り浸ることも多かつたこと、現場は内鍵が施錠されていただけで、被告人を突き飛ばすなどして排除すれば、物理的にはいつでも室外に逃げだける状況にあつたこと、A子供述は、既に検討したとおり、本件わいせつ行為が強制によるものである旨訴え、自己の行動を正当化するためにことさら偽りを述べている部分が相当存する疑いがあり、その信用性に疑問があるため、包丁による脅迫、首締めの各事実についてもA子のみの供述でこれを認めるにはためらいが残ること、他方、被告人の供述は、信用できない点も少なからず見受けられるものの、先に検討したとおり、わいせつ行為の要点については捜査段階から一貫した供述をなしており、その内容も諸事情に照らし比較的自然であること、被告人には、細かな計算の上で巧妙に事実を偽る能力があるとは考えにくいこと、わいせつ行為の開始から警察官が駆けつけるまでに四時間前後の時間が経過していて、やや長時間にわたり過ぎる印象を抱かせることなどを考慮すると、被告人の供述を虚偽のものと断じて、排斥することはいまだためらわれる。

3  そして、被告人の供述を基にして、既に検討したところを総合すると、真実は、次のような経緯で本件わいせつ行為がなされたのではないかとの疑いをぬぐい去ることができない。

A子は、口論の後、客で仕事に便宜を図つてくれていた被告人を失い、商品まで返されたというのでは、会社に顔向けができないので、何とか被告人と和解し、今後も取引関係を続けたいと思い、胸への愛撫をしぶしぶながら了承した。そして、次から次へとわいせつ行為を要求され、写真撮影をも求められ、そこまでならと一つ一つ応じていくうちに、次第に自らも行為に引きこまれてしまい、結局姦淫以外の行為は全て応じてしまつた。ところが、被告人は、彼氏に写真を送るとか、売りさばくなどといやみを言つた後、眠くなつたと言つて一人で横になつてしまつた。A子は、我に返り、被告人の要求に応じてしまつたことを後悔するとともに、誰にも見せないということでわいせつ写真の撮影を甘受したのに、約束に反してこれを婚約者等に送るなどと言われたことや、そのように好き勝手なことを言つておきながら、自分を放置したまま横になつてしまうという被告人の身勝手さに対して、怒りがこみ上げてきて、感情の抑制がつかなくなつた。A子は、被告人に色々と文句を言つていたが、酒の酔いと疲労のため眠くなつてまともに相手にしない被告人に対する腹立ちを強め、被告人の頭部を土鍋などで殴つて憤まんをぶつけたが、被告人が冷淡な態度をとり続けたため、売り言葉に買い言葉で、被告人の心胆を寒からしめるために、警察を呼ぶといつて、窓を開けて大声で叫んだ。その結果警察に通報され、警察官が駆けつけてきたため、事が大きくなり引つ込みがつかなくなつてしまい、しばらくためらつたが、被告人とこんな行為をした後にけんかになつたと話すわけにはいかないし、自己の名誉を守る必要もあるものと判断し、室外へ飛び出すと、被告人にわいせつ行為を強制された旨訴え、その後は、やむを得ず、強制されたとの筋での供述をすることとなつていつた。

九  結論

以上述べたとおり、当裁判所は、本件わいせつ行為は、強制によらず、合意に基づいてなされたとの合理的な疑いがあると判断する。したがつて、本件公訴事実については犯罪の証明が十分でないことになるから、刑事訴訟法三三六条により被告人に対し無罪の言渡しをする。

〔検察官新井克美、同坂田吉郎、弁護人長谷川直彦各公判出席。求刑 懲役四年及び柳刃包丁没収〕

(裁判長裁判官 小出じゆん一 裁判官 加藤就一 裁判官 安東 章)

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